越後駒ヶ岳 〜敗退、そして負傷〜
2018年4月27日

「国土地理院発行の2万5千分の1地形図
(八海山、大湯)」
ルートタイム
越後駒ヶ岳の登山ルートはいくつかあるが、この時期にアプローチできる登山口は限られている。
調べたところ、4月下旬には駒の湯までの道路が除雪され、登山口まで車でアプローチできるとあったので、駒の湯から登り、駒の小屋で一泊する計画を立てた。
行程が長いので、早朝から登ろうと前日に出発して登山口で車中泊をしようと駒の湯へ向かったのだが、行ってみると途中から通行止めめになっており、駒の湯までは入れない。ここから歩くにしても車を駐める場所もない。
他の登山口はと調べてみると、枝折峠も同じ道の先なので当然ダメ。となるとあとは銀山平・石抱橋にかけるしかない。そちらへ行くにはシルバーラインを通るのだが、シルバーラインは夜間通行止めで朝6時にならないと開かない。仕方がないのでシルバーラインの入口の駐車場で車中泊とする。
朝6時、ゲートが開くのを待ってシルバーラインへ。
終点の奥只見ダムまで全長22.6kmのシルバーラインは、その八割がトンネルである。しかも素掘りの部分も多く、アドベンチャー気分満載の雰囲気が楽しい。
トンネル内でGPSが使えなくなり、とにかく走り続けていると、とうとう終点の奥只見ダムまで出てしまった。
どう考えても行き過ぎである。
どうやら途中に出口があったのを見落としたらしい。
仕方なくUターンして出口を探しつつ来た道をまた戻ると、だいぶ戻ってから左に曲がる道を発見。トンネル内に丁字路があるというのも不思議な感じだが、そこを曲がるとトンネルから出ることができた。どうやら正解らしい。
そこからほどなくして石抱橋に到着したが、そのあたりは釣りのスポットらしく、釣り人の車がたくさん駐まっており、車を駐めるスペースがない。どこか駐められる場所がないかと周辺を探すが良い場所がなく、戻ってくるとちょうど釣り人たちが引き上げ始めていたので空いた場所に車を駐める。
ちょうど釣りの管理事務所だろうか、小屋の前に車を駐めることができた。この先は除雪されておらず、通行止めなので邪魔になることもないだろう。
時刻は7時30を過ぎ、だいぶ予定よりも遅れてしまっている。急いで身支度をして歩き始める。
ほとんど人が入った形跡がなく、どこから入れば良いのかもよくわからなかったが、地図によるととりあえずこの北又川に沿って登っていけば良いようだ。小屋のわきからとりあえず方角を定めて歩き始める。
基本的には川に沿ってほとんど平坦な道なのだが、ときおり急な斜面や歩きづらいところが出てくる。トレースがないのでなかなか大変だ。
川に沿って1時間半ほど歩いた頃、取り付き点に到着。ここからは登りになる。手前の尾根からも登れるようだが、一応登山道は次の尾根なので、手前の尾根を回り込み、急な斜面をトラバースして次の尾根に取り付く。
これがまたとんでもない急登で、ほとんど壁登りに近い。アイゼンとピッケルをフルに使い、息も絶え絶えになってこの壁を200mほど登ると、痩せ尾根の登山道に出た。
傾斜も緩く、雪も少ないのでホッとして歩き始めたのだが、ここから厄介な障害物にぶつかる。
尾根上の中低木が雪の重みで皆こちらに向いて寝ており、完全に道を塞いでいるのだ。痩せ尾根の上で避けて通ることもできず、枝を掻き分けなければ通れないのだが、絡み合った枝を先の方から掻き分けるのは至難の技である。さらに、掻き分けているうちに雪から抜けて勢いよく跳ねる枝もあり、危険この上ない。30分ほど悪戦苦闘してみたが、精魂尽き果ててしまった。
見通しの良い尾根上なので、これから向かう方向を眺めると、こんな状況がずっと続いているようだ。
この時点で時刻は11時。
これ以上の前進は不可能と判断し、残念ながら今回はここで下山することとした。
来た道を引き返し、先ほどの壁へ。とても前を向いて降りられる傾斜ではなく、後ろ向きにアイゼンを蹴り込みながら慎重に降る。
順調に下り、再び川沿いに戻るとあとは平坦な道だ。1時間ほどで車まで戻れるだろうとのんびりと歩いていたが、実はここでやらかしてしまった。
踏み抜きである。
左足を乗せたところだけがすっぽりと崩れ、しかも周りの雪がしっかりしていたため、腰をしたたかに打ち付けてしまった。体重に加えて15kgほどのザックの重みもかかったせいもあり、痛みで動くことができない。
左足だけを穴に突っ込んだまま不自然な姿勢でしばらく呻いていたが、やっとのことで足を抜き立ち上がると、やはりかなり痛めたようで立っているのもつらい。
とはいえ、こんな誰もいない山の中ではどうしようもなく、呻きながらゆっくりと歩き出す。
いっそザックを捨ててしまおうかとすら考えたが、頑張れるだけ頑張ろうとどうにか歩き、やっとの思いで石抱橋に駐めた車まで到着。
運転もつらかったが、どうにか帰宅することができた。その後、数ヶ月間接骨院に通う羽目になったことは言うまでもない。