2014年10月12日

「国土地理院発行の2万5千分の1地形図
(鼠ヶ関)」
ルートタイム
今日は二子島森林公園キャンプ場を6時前に出発し、日本国小俣登山口に7時頃到着。
心配していた天気も良く、今日も楽しい登山になりそうだ。
街道に面した登山口のすぐ向かいに5台ほど駐められそうな駐車場があり、そこに車を入れる。
準備運動をし、荷物を整えて歩き出す。
登り始めるといきなり道が二股に分かれる。少し迷ったが、おそらく先で合流するだろうと考え、近そうな右側の急な方へ進む。
しばらく先で思った通り道は合流していた。
まもなく現れるのがラジウム清水だ。
いろいろと効能があるとのことなので、キャンプ場で汲んできた水筒の水を捨て、清水を詰め直す。
登山口周辺は杉が中心で薄暗かったが、だんだん落葉樹の割合が多くなり、明るくなってくる。
登り始めて40分ほどで松ヶ峰に到着。
ここは平らな広い場所でベンチが複数設置してあり、休憩には最適である。
ちょうどいいので、休憩にし、朝食にカロリーメイトを齧る。
朝の陽射しが色づき始めた木の葉を鮮やかに映し出す。爽やかな風もあり、足取りも軽い。
松ヶ峰から10分ほどで沖見休憩所に到着。ここからは日本海の展望が良く、粟島も目の前に見える。
ただ松ヶ峰から近すぎるため、ここでの休憩はせず、先に進む。
松ヶ峰から30分程度で蛇逃峠に出る。写真のように四阿があり、展望も良い。
蛇逃峠からは少し下ってから登り返す。右手先に見えるのが日本国だ。
蛇逃峠から15分ほどで日本国山頂に到着。
広々とした山頂。誰もおらず気分が良いのでコーヒーを沸かしてパイプで一服。山頂には木造の展望台もあり、そこに日本国山名の由来が書かれていたので、下に書き写しておく。
名峰「日本国」
「日本国(にほんこく)」の山名の起こりは、諸説ありて定かでない。
人皇第三十二代祟峻(すじゅん)天皇は在位五年にして、時の権力者蘇我氏のために暗殺される。その第一皇子、蜂子(はちこ)皇子はその時御年五歳である。聖徳太子は、皇子の身の上に魔の手の延びるを案じて、皇子を都より落しめた。さすらいの身となった皇子は、越(こし)の国の最はてに来て大いに産業を興し五十三歳で出羽国羽黒山で没した。
皇子は、晩年この高山に登りて、故郷飛鳥のある未申の方位を指差して「これより彼方は日本国(やまとのくに)と仰せられた。これが「日本国」の始まりとも言う。
皇子なきあと、大和朝廷は大化の改新を行い、蝦夷地(えぞち)平定の大業を進め、越の国の要害の地に柵を設けた。その渟足柵(ぬたりのさく)、磐舟柵(いしぶねのさく)、そして幻の柵と言われる都岐沙羅柵(つきさらのさく)は、日本国と一致するとの学説もある。
又、江戸後期、遠藤太郎次なる若者がこの山の頂きで見事な鷹を捕らえ、徳川十代将軍家治に献上せしところ、将軍は「これは天下無双の鷹なるを持って、捕れた山を「日本国」と名付けよ」と賞したという言い伝えもある。
まさに名峰「日本国」は、千古の謎を秘めし山である。(山北町)
展望台の上からは日本海が望め、粟島が正面に見える。
下りはルートを変え、蔵王堂登山口へ。
こちらはなかなか急な斜面が続く。登山口に降りるすぐ手前に蔵王堂があり、これが登山口名の由来のようだ。
蔵王堂を過ぎると、すぐに鳥居のある登山口へと出る。
登山口からは車道を歩いて車を駐めてある小俣登山口へと戻るが、この道がとても素晴らしい。
美しい田園風景と澄み切った水の流れる沢を楽しみながら歩いて行くと小俣集落に入る。ここはかつて出羽街道の宿場町であり、古の面影を残した立派な家々が立ち並ぶ。その中にある酒屋さんでは日本国登頂証明書を発行してくれる。
せっかくなので証明書をお願いし、ついでに日本酒「日本国」を購入。
今回は、2日にかけて新潟の山、新保岳と日本国を登ったが、どちらも短い時間で楽しめるのんびり登山。天気もすこぶる良く、楽しい山行となった。